HOME > フクシ情報広場

健康情報広場

2012-08-07
北区探訪⑥
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
王子稲荷神社
北区岸町1-12-26
「王子神社」から西北へ500mほど行くと「王子稲荷神社」があります。
王子と言えばキツネ、狐と言えばお稲荷さん、お稲荷さんと言えば「王子稲荷」と言われるほど古くから有名なお稲荷さんです。
「王子の狐」という古典落語をご存じですか。
「王子のきつね火」伝説や広重の錦絵「王子装束ゑの木大晦日の狐火」が残っています。

御祭神は、世に「稲荷大明神」と称える衣食住の祖神で、古来産業の守護神としてまた、芸能上達にご利益ありとして、広く庶民に信仰されています。社伝によれば、康平年中、源頼義が奥州征伐の折、深く当社を信仰し関東稲荷惣司と崇め、戦勝を祈願したとあり、西暦1060年の平安朝中頃には『東国三十三国』の稲荷の頭領として相当の社格を有していたようです。
そして『岸 稲荷』と称されていました。
元亨二年(1322)領主豊島氏が、紀州の熊野神社を勧請して王子神社を祀ったところから、地名も王子と改まり、当社も「王子稲荷神社」と改称されました。
上の写真は、初午の日の参詣風景です。凧市が開かれ、お守りの「火防の奴凧(ひぶせやっこだこ)」が授与され、王子駅からの参道には沢山の屋台が並び、一日中人通りが絶えず大いに賑わいます。
小田原北条氏は、当社を深く尊崇し、朱印状を寄せており、江戸時代には、徳川将軍家の祈願所と定められて大層栄えました。
八棟造り極彩色の華麗な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋(すい)を伝え、当時の稲荷信仰の隆盛が偲ばれます。
雪のあした王子詣の図
(文政10年(1827)五渡亭(歌川)国貞I)
七代目市川団十郎の一行が、雪中、王子稲荷に参詣にやってきた様子を描いている。
惜しいことに、昭和20年4月13日の空襲によって本殿など大破しました。その後、 昭和35年に本殿の再建が行われましたので、現在の社殿は、拝殿幣殿は文政5年(1822)の作、本殿は昭和の作ということになります。昭和62年には、社殿の総塗り替えが165年ぶりに行われ、神楽殿も新規に建て替えられました。
境内は台地の中腹にあって約2千坪、昔はこんもりと茂った大木に包まれて、昼も暗く、山中には沢山の狐が住み、神の使いとして大切にされていました。今もその跡は、「お穴さま」として保存されています。
朱塗りの社殿の奥には、御石稲荷神社があり、そこには持ち上げて願い事をする「願掛けの石」がある。願いを込めて石を持ちあげた時、重いと思うか、軽いと思うかで願いが叶うと言われています。境内には、沢山の奉納された石灯篭や「王子いなりみち」という道しるべ用の標石があり、山岡鉄舟筆の石碑や和歌・俳句の石碑もいくつかあります。
石段左側の現在「いなり幼稚園」の園舎のところには、戦前までは、『稲荷の滝』と呼ばれていた滝が落ち大きな池があったそうです。

境内の史料館には、谷文兆(たにぶんちょう)の「龍図」と柴田是真(しばたぜしん)の「茨木(いばらき)」(額面着色鬼女図)の扁額があります。この「茨木」は昭和9年9月「国の重要美術品」に指定された是真の出世作(天保11年作)といわれる名品です。共に初午・二の午の日に見ることが出来ます。
浅草寺にも是真作の「茨木」(明治16年作)の絵馬があります。これは、五代目尾上菊五郎が王子稲荷ヘ参詣の折、絵馬を見て感動し「新曲茨木」を創り新富座で初めて上演した時に浅草寺に奉納されたものです。是真33歳時の王子稲荷の鬼女の迫力と凄さは、後年76歳の作品に倍するものを私は感じます。
(柴田是真:江戸末期から明治期に活躍した日本画家、漆工家 帝室技芸員)
年末の恒例行事「大晦日狐の行列」は、狐の化粧や、お面を被り、着物を着た人々が、除夜の鐘と共に「装束ゑの木稲荷神社」を出発して「王子稲荷神社」へ向かう大行列で毎年大変な賑わいです。
参考資料:王子稲荷神社発行「ともしび」ほか
王子駅から王子稲荷神社に行く道は、戦前には王子のメイン通りでした。途中にある岸町ふれあい館の場所には戦前は王子警察署があり、役場、登記所も近くにあり代書屋さんが並んでいた。その元王子警察の前に「石鍋久寿餅店」という久寿餅やあんみつの甘味料で有名な老舗のお店があります。初午の日には毎年長い長い行列が出来ます。
王子においでの際にはどうぞお立ち寄りください。
店頭にある高札二枚の内容をご紹介いたします。
天保九年(1838年)出版の「砂子の残月」によれば『二月初午王子稲荷最も群集す。
此の日武家、市も稲荷を祭り灯燭をかかげ、鼓吹舞』とあり、側用人より大名に迄なった柳沢家が信仰の王子稲荷は出世稲荷と武士達も参詣し、また柴田是真の茨木の大絵馬が江戸中で人気を得、画工芸能人も参詣し錦絵の作品が最も多い場所となった。紙の博物館にある大岡越前の許可書によれば、飛鳥山より音無川、王子稲荷にかけて五十四軒の料理屋水茶屋と三ヶ所の楊弓場のある観光地で明治大正昭和の戦前迄その面影が残っていた。」
(当店は明治二十年代より料理屋茶店などに四季折々の食品を提供しておりましたが、戦後は店売りのみとし昔ながらの手作りで製造しております)
王子村稲荷大明神 文化十一年
遊歴雑記  巻之上所収  十方庵敬順

『王子神社西の坂をくだりて稲荷へ三町あり、関八州の稲荷の司とかや。初午殊に賑はしく続いて正、五、九月はひとしほ歩みをはこぶ人、中古より別して繁盛し石の玉垣両石段宮居花表(とりい)にいたるまで壮麗に追々再建し、飛鳥山のこなたより思い思いに奉納の石燈籠の常夜燈又夥し、この社頭に到る路傍の春は両側の櫻美化にして立春七十六、七日頃よりを旬とす、或は杜若の水面に紫を競い、山吹連翹の色をあらそう風情、枚は東山の耕地を一面に眺望して夏はほたる、秋は虫聞、紅葉、雪見の頃迄、人足たゆる時なく本所、向島と一対といわん奴』
資料:「石鍋久寿餅店」前高札
 
▲このページの先頭へ