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2013-02-21
北区探訪⑨
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
平塚(ひらつか)神社(じんじゃ)と城官寺
 

 JR上中里駅改札口から蝉坂を登るとすぐ右手に「平塚神社」があります。(北区上中里1-47)

推理小説に興味をお持ちの方なら、内田康夫の「浅見光彦シリーズ」をご存じでしょう。作者内田康夫は北区滝野川出身で、小説の中に北区がしばしば登場します。特に「平塚神社」と入口にある「平塚亭」というおだんご屋さんはお気に入りのようです。

 平塚神社の歴史は、平安時代末期、前九年の役・後三年の役にまでさかのぼる。当時この辺りは、豊島太郎近義という豪族が支配していた。永保三年(1083)源義家らは奥州征伐の帰途この豊島氏の館に逗留し、近義の手厚いもてなしを受けた。その饗応の礼に義家は、鎧具足一領と守り本尊としていた十一面観音像を近義に与えた。
 後年、豊島氏の子孫は、この鎧を砦内の清浄な場所に埋め、塚を築いた。本殿の裏に甲冑塚が現存しているが、その塚が平らかであったので平塚と呼ばれるようになったと云われている。そして、源氏三兄弟(源義家・義綱・義光)を祀る社を建て「平塚三所明神」とした。
これが現存する「平塚神社並びに別当城官寺縁起絵巻」(北区指定有形文化財)に記述されている平塚神社の起こりです。
 その後、戦国時代(文明10年・1478)豊島泰経は太田道灌との戦に敗れ、平塚城は陥落し、平塚明神は荒廃した。
     

 その後、戦国時代(文明10年・1478)豊島泰経は太田道灌との戦に敗れ、平塚城は陥落し平塚明神は荒廃した。

 江戸時代になって、三代将軍家光に仕える山川城官貞久という無官の盲人により社が修復されます。山川城官は平塚明神に帰依し、将軍家光が病気のときその平癒を祈願した。そして、その結果家光は快癒し、城官は自費にて社殿を修復しご霊験に感謝の意を表した。
 後日、家光はこれを知り大いに喜び、寛永17年山川城官に二百石の知行地を与え、内五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、以後家光自らもたびたび参詣したという。

 平塚神社のご祭神は、源氏三兄弟(八幡太郎義家 加茂次郎義綱 新羅三郎義光)御利益は、武芸上達 病気平癒 立身出世 勝ち運等である。
 社殿の前にある二基の石燈籠には、寛永十八年(1641)家光六人衆の一人朽木植綱の銘が記され、江戸名所図会にも描かれている。またその長いイチョウ並木の参道は、江戸時代のまま「日光御成道」から伸びている。
 最近、平塚神社裏の発掘調査で平塚城の城郭と思われる遺跡も発見されているそうである。また、甲冑塚は古墳であるという説があり調査の発表が待たれる。

城官寺(じょうかんじ)(北区上中里1-42)
 

     

 平塚神社の東側の蝉坂を渡ると城官寺がある。昔は筑紫国安楽寺の僧が回国修行のみぎり、阿弥陀如来像を当地に安置した浄土宗の寺でした。
 寛永11年(1634)社殿を修理し、真言宗の金剛仏子を招き真言宗に変わりました。
将軍家光の病気平癒の祈願を山川検校城官がしたことを家光は知り、寛永17年酒井讃岐守忠勝の別邸に城官を呼び、忠義者として城官に200石を下賜、内50石を平塚明神に寄進して、「平塚山城官寺安楽院」と称するように家光が命じたと「徳川実記」に記されています。
 江戸時代、城官寺は平塚神社の別当寺であり、現在は、真言宗 豊山派のお寺で、ご本尊は秘仏の阿弥陀如来像です。

 当寺には徳川将軍家御典医「多紀家累代の墓所」があり、昭和11年東京都の旧跡に指定されています。
 山門には、総理大臣田中角栄書の「平塚山」と書いた扁額が架かっています。田中角栄元総理は、中央工学校の卒業生で、昭和28年から同47年まで校長に就任していました。また、秘書の榎本敏夫氏はもと地元の住人でした。
 山門を入って右に、上野寛永寺の石灯篭があり、将軍より下賜されたものと思われます。

 
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