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2013-03-15
北区探訪⑩
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
稲付城跡(いねつけじょうし)と靜勝寺(じょうしょうじ)
北区赤羽西1-21-17

本  堂
 赤羽駅西口の高台に通称道灌山、東京都旧跡(昭和36年指定)の「稲付城跡」がある。
江戸城を築いた太田道灌の城砦跡と言われているが、その築城の時期は明らかではない。
道灌(資長すけなが)の孫資高、曽孫康資は、豊島郡岩淵に居住しており、その当時の砦跡と推定される。
 この地は江戸と岩槻(ともに太田氏の築城)の街道筋の中間にあり、岩淵の渡し(川口の渡し)を控えて要衝の地であったことと、三方を崖に囲まれた台地突端に位置し、小規模な砦あるいは館を建てるには適したところであったと思われる。東方には荒川が流れ、西には亀ヶ池という大きな池を有する高台であり、城域南端に当たる中坂際で当時の空掘りの遺構も昭和62年に発掘された。
<江戸名所図会>  中央左・靜勝寺  右手前・日光御成道  上・亀ヶ池
 室町時代後期・永正元年(1504)開山には道灌の禅の師であった埼玉県越生の龍穏寺五世僧雲綱俊徳が勧請され、そこに草庵を結び、太田道灌を開基としている。
 江戸時代に至り道灌の子孫の太田資宗(すけむね)が、草庵4代目の僧麟的(林的とも書く)を住持として道灌寺と名付けて、道灌の菩提を弔わせた。寛永の末年のことと思われる。さらに資宗は、稲付を領地としていた東叡山寛永寺と寺社奉行へ働きかけ、寺域を除地として貰うように努め、承應二年(1653)それに成功するや、山号寺号を太田道眞、道灌父子のゆかりの名からとって、「自得山靜勝寺」と命名、これも道眞・道灌にゆかりの深い龍穏寺末として正式に寺とし、明歴元年(1655)本堂などを建立した。したがって、事実上の開基は資宗、初代住持は麟的と言うことが出来る(世代としては四世)。
 現在も禅宗・曹洞宗の「靜勝寺」として毎年道灌の命日7月26日に道灌祭りが行われ参道に露店が並び賑わいを見せる。

境内と山門

山門に登る石段と稲付城跡碑

 日光御成道からの参道に続く53段の石段を登ると山門があり、その正面奥に道灌堂がある。享保二十年(1735)道灌二百五十回忌に建築された道灌堂には、靜勝寺6世風全によって作られたと言われる「道灌の木像」が厨子(三百五十回忌に製作)内に収めて祀られており、毎月26日の祥月命日に御開帳される。境内の弁天堂は昔の本堂を移築したもので、弁財天像と十一面観音を祀っている。道灌の木像は、平成元年北区の指定有形文化財に指定されている。


道 灌 堂

太田道灌像

 代表作 長編小説「大菩薩峠」の著者「中里介山」は、明治35年頃、岩淵尋常小学校の代用教員に奉職し、この靜勝寺に下宿していた。その下宿部屋は、弁天堂の中に一部保存されている。
また、大衆作家「安岡章太郎」は、東京市立一中(現在の都立九段高校)の学生時代 訳あって、同校の教師であった住職のこの靜勝寺に預けられ三年間寄宿している。当時の生活を舞台にして後に小説「花祭」を書き、下宿した当時の青春の思い出を書いている。

なお、当寺は禅宗・曹洞宗で<自得山 靜勝寺>と称するが、その名の由来は、道灌の戒名(光月院殿春苑静勝道灌大居士)と道灌の父道眞の戒名(自得院殿実慶道真庵主)に因んでいる。道灌は中国の兵書「尉繚子(うつりょうし)」の中の『兵は静かなるを以って勝つ』という言葉を好んだと云うことである。

(参考出典:靜勝寺発行 案内パンフレット他)

 
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