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2013-04-24
北区探訪⑪
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
史跡「西ヶ原一里塚」
北区西ヶ原2-4-2先

 徳川家康は、江戸幕府を開くと日本橋を基点とする五街道の整備に着手しました。
日光御成道は、日光道中(街道)の脇往還道で三代将軍家光の時代に整備された街道ですが、五街道と同様にお江戸日本橋から一里(約4Km)毎に道の両側に土を盛り、目じるしに榎(えのき)をそれぞれ植えました。
 それを「一里塚」と呼びました。東京都内には江戸時代18カ所も一里塚があったそうですが、当時の場所に当時のままの形で現存しているのは、ここ「西ヶ原一里塚」の一カ所だけです。
 板橋区志村一丁目には中山道の「志村一里塚」(史跡)がありますが、これは、新中山道の工事の際に石垣を廻らせて整備し保存しているものです。
 日本橋から最初の一里塚は、文京区「本郷追分」、そして、二里目がここ本郷通りの滝野川警察署前の「西ヶ原」、三里目は日光御成道(岩槻街道)の「稲付」(現赤羽西二丁目)にありました。


 明治時代以降、東京の都市開発、道路の拡張・整備により「一里塚」は、邪魔なもの、不要なものとして、どんどん壊されて消滅してしまい、場所によっては、もと一里塚があったという表示のみが残されております。
 では、この「西ヶ原一里塚」は、なぜ現存しているのでしょうか。それには、大正時代に地元住民による強い保存運動と有力者による熱心な支援活動の物語があります。
 明治後期から大正時代、路面電車(後の市電)が東京市内の道路に急速に敷設されていきました。当時の道路は狭く、電車を走らせるのには道の拡幅が絶対に必要でした。現在の本郷通りにも電車を走らせる計画があり、そのためには路端の一里塚は削り、道路を拡げなければなりませんでした。
しかし、一里塚は江戸時代の様子を留める貴重な歴史上の記念物であるので是非保存すべきであるという地元の強い要望・運動により、在住の渋沢栄一・古河虎之助など有力者も加わり、東京市長・滝野川区長を動員して、約600坪の土地を買い取り、東京府に寄付し道路用地に充て、一里塚除去計画を阻止することに成功しました。そして、現在のように道路の真ん中に榎の植えられた塚が島のように残りました。
 南側の塚に『二本榎保存の碑』を大正5年6月建立し、大正5年10月22日記念の除幕式が渋沢栄一らの参列の下で行われました。この石碑は、江戸城の外郭・虎ノ門の石垣の石に、題字は徳川十六代宗家家達(いえさと)によって書かれ、裏面には「この一里塚は、江戸の史跡を顕彰するのに適当な記念物なり」と記されている。
 「西ヶ原一里塚」は、大正11年に国の史跡に指定されています。


 江戸時代より前の街道は、京・大坂を中心に張り巡らされておりましたので、
家康は、お江戸日本橋を基点とする街道を幹線道路として改めて整備し、政権の中心は江戸であることを天下に示しました。
 街道筋と宿場の整備は、軍事・産業にとって大変重要でありました。また、一里塚は旅人の目印となり、駕篭(かご)賃などの目安になり、また、木の下で休憩するなど有用でおおいに役立ちました。
 (出典;北区教育委員会資料など)

参考写真:志村一里塚



 
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