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2013-05-23
北区探訪⑫
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
七社神社(ななしゃじんじゃ)と一本杉神明宮(いっぽんすぎしんめいぐう)
北区西ヶ原2-11-1

 北区内に神社は数多くあるが、ここ「一本杉神明宮」は最も古い歴史ある神社の一つではないかと思っている。なぜならば、ここには天照大神を祀る社があり、樹齢一千年以上という杉の大木をご神木とする天祖神社が江戸時代以前からあった。そして、その社は今も、摂社として「七社神社」の境内にある。
大鳥居前に日光御成道の「西ヶ原一里塚」があり、「一本杉神明宮」は旅人の守護神としての信仰も篤かった。長い参道の奥にきれいに掃き清められた、静寂な「七社神社」がある。

「七社神社」は、『新編武蔵風土記稿』に「西ヶ原七所明神社、村の鎮守とす。紀伊国高野山四社明神をお移し祀り、伊勢・春日・八幡の三座を合祀す。故に七所明神と号す」と記されており、『江戸名所図会』には、近くの西ヶ原4丁目の無量寺というお寺の境内に、「七(なな)の社(やしろ)、七所(しちしょ)明神社(みょうじんしゃ)」としるされている。現在の場所で言うと、「旧古河庭園」のなかにあった。残念ながら、寛政五年(1793)火災により、社殿と共に古文書、古記録等焼失し、詳しいことは不明である。

明治維新により新政府が発足すると、明治初年(1868)神仏判然令(神仏分離令)が発布され、「七(なな)の社(やしろ)、七所(しちしょ)明神社(みょうじんしゃ)」は「一本杉神明宮」の社地に遷座されて、現在の「七社神社」として今の本社となり、境内の摂社に「天祖神社」(一本杉神明宮)末社に稲荷神社、菅原神社、三峯神社、熊野神社が祀られている。
「一本杉神明宮」の杉の大木は、「西ヶ原一里塚」と共に旅人たちの格好の目じるしになっていたが、明治44年ついに枯死し、危険防止のため根元から十数尺で伐木されて切り株がご神木として残っている。
中央が一本杉の切り株

疱瘡神

 稲荷神社のそばに、珍しい神としては「疱瘡神」が祀られている。疱瘡とは天然痘のことで、昔は死の病として恐れられておりました。そこで、「疱瘡神」を村の入口などに祀り、病が村に入ってこないことを願い、「疱瘡神」に祈れば疱瘡を免れ、または罹っても軽くすむと信じられていたので、各地にあったようですが現存するものは少ない。まさに疫病神ということでしょう。

神明宮の前にある手水鉢には弘化四年(1847)、稲荷神社前の手水鉢には安政五年(1858)と銘記され、共に江戸時代後期のものである。

七社神社の手水舎は、昭和六年に造られたものだが四方(しほう)転(ころ)びという柱が少し傾いている頑丈な建築技法が使われ、天井には勝田蕉琴という画家による「八方睨みの龍」が描かれており、どの位置から見ても自分の方を睨んでいるように見える。


四方転びの手水舎

八方睨みの龍

孟子孔子像

 境内には、古河男爵に寄贈された孟子・孔子の石像が安置されている。また、本堂の前には左右に御衣黄(緑色)と福禄寿(薄桃色)の八重桜の木があり、毎年4月中旬には見事な八重の桜花を楽しむことが出来る。


御衣黄と福禄寿

茅の輪くぐり

例大祭は、秋9月23日に盛大に挙行され、春の節分の豆まきも賑やかに行われる。伝統的な神事「茅の輪くぐり」は、氏子たちが集い、夏越(なごし)の祓(はら)い・年越(とごし)の祓いの行事として行われている。
本殿に架かる「七社神社」の扁額は氏子でもあった渋沢栄一子爵の揮毫によるものである。

神社付近は、七社神社前遺跡と称し、弥生時代後期の鉄釧(てつくしろ・鉄製のブレスレット)も出土し、現物が飛鳥山博物館に展示されている。
 
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