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2013-10-24
北区探訪⑭
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
香取神社(かとりじんじゃ)
赤羽西2-22-7


ご祭神:経津主神(フツヌシノカミ)大山咋神(オオヤマクイノカミ)
建御名方神(タテミナカタノカミ)合祀
ご祭礼:九月十五日
JR赤羽駅から南に日光御成道を10分程行くと高台に香取神社がある。
「新編武蔵風土記稿」に旧稲付村の鎮守社であったと記され、創建期は不明なるも鎌倉時代までさかのぼると推定され、往時には普門院が持ち寺であった。
現社殿は大正六年に完成したものだが、昭和20年8月10日の空襲で社務所に爆弾が直撃し、鳥居や神楽殿は焼失したが社殿は類焼を免れた。
 奥社には、朱塗りの神殿が安置されている。これは江戸時代初期、籐堂高虎が上野東照宮神殿として寄進したものだが、三代将軍家光が東照宮を改築した際、家光の夢霊により稲付村香取神社へ移されたものという。この逸話は、「担いできた神殿」として、稲付の昔ばなしになっている。

【担いできた神殿】
赤羽駅の南側には広大な台地と平地が広がっている。
この一帯は昔から稲付(いねつけ)と呼ばれ、その地名には次のような言い伝えがある。入間川は多くの河川を集めながら関東平野に出て、大河となって流れていた。当時は堤防も無く、大雨の度に洪水に見舞われていたが、たまたま諸村の稲刈が終る頃、洪水が干してあった稲を流して稲付の崖下に寄せ付けた。それからこの土地を稲の寄り付いた所として「稲付」と呼ぶようになったと云う。
稲付村が東叡山寛永寺領になった頃、上野の山にあった東照宮を日光東照宮と同じ様に立派に建替えることになった。そして、元のお宮は、稲付村が頂く事になった。村人は近郷から祝いに来た人達と共に、総朱塗の立派な神殿を上野から担いできた。その時は、将軍様の御威光で街道筋の邪魔な物は取払われた。それからは、神社の山下にある街道を通る大名までが、その度に駕籠を降りて敬意を表したと云われる。

境内には、村の若者たちが米俵を担ぐ訓練として石を持ち上げ力競べをし、持ち上げた人の名とその重さを彫って奉納した「七つの力石」がある

鳥居前には「小林先生彰功之碑」がある。小林大豊先生が、明治初期、近くの鳳生寺で近在の子女に初等教育を施した事を顕彰したもので存命中に建立された。

右「小林先生彰功の碑」

「元小林学校の地」

(1)稲付台地にあって、すこぶる景勝の地を占めている香取神社の四十段の石段を登るとすぐ右に大きな石碑が二つ建っている。向かって右は「小林先生彰功之碑」(明治31年10月建立)左は「日露戦役記念碑」(明治39年5月建立)で、共に稲付村の歴史を知るための重要な史料である。
右の碑の高さは、2.4m、横1.2m、厚さ12cmの自然石で、表面の上部に横書きの「小林先生彰功之碑」中央に小林先生の業績の内容、左下に「七四翁彦竜篆額 英雄道撰 戸田直政書」と刻まれ、裏面には村の有志(83人)世話役(23人)の名前が連書されている。

(2)碑文によると、小林大豊先生は天保7年(1836)正月26日、信州伊那郡古田村の農家に生まれ、名は順、号は大豊と称し、父・瀬左衛門の次男であった。
幼い時、家を飛び出し諸国を行脚した後、駒込吉祥寺の栴檀林(江戸時代から古い歴史をもつ曹洞宗の最高学府)で漢学、儒学などを学んだのち、明治2年8月、この稲付村に逗留することになった。そして、この村の曹洞宗・岩淵山鳳生寺の監寺(かんす)を勤めるかたわら、村の子供たちを集めて寺子屋を開き、読み書き、そろばんを中心に教えていた。

(3)明治9年 同寺を辞め、「小林小学校」を現在の赤羽西1-1-8に設立し、初代校長として教育に専念したので、村人はもちろん、教え子たちから常に心から尊敬されていたが、明治31年3月、職を退き(後任校長・鳳生寺第38世住職 英雄道)この村で余生を送り明治43年10月27日逝去。鳳生寺に手厚く埋葬されている。
このような碑は、区内にも珍しく、碑文を読んでいるうちに師の高徳がいかに篤かったかということが偲ばれ、自然に頭が下がってきた。
(出典;北区新聞「北区の史跡と伝説」55  文 山下冨士夫氏、森 良郎氏)

 
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