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2014-03-03
北区探訪⑯
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
大満寺と正光寺

東京メトロ南北線「赤羽岩淵駅」北本通り赤羽交差点のすぐ近くに大満寺と正光寺はある。この辺りは江戸時代、日光御成道・岩槻街道の宿場で岩淵本宿と言った。両寺とも住所は岩淵町である。戦前、赤羽地域一帯は広く岩淵町であったが、昭和37年制定された“住居表示に関する法律”により赤羽・赤羽西・赤羽北・赤羽南などと名称変更され昔の由緒ある地名が消えて行った。そんな中この地域の町民は「岩淵町町名存続期成同盟」を結成し、区や区議会に町名存続の陳情を繰り返し、その熱意により昭和46年区議会にて町名存続の決議を引き出し、この地区には「岩淵町」名が残った。
これを記念して、翌年『岩淵町町名存続之碑』が岩淵町22にある「八雲神社」の境内に建設された。
大 満 寺(だいまんじ)
北区岩淵町35

真言宗のお寺で山号は、薬(やく)王山(おうさん)瑠璃光院(るりこういん)と言う。
御本尊は大日如来である。

戦災によって、当寺の縁起や過去の歴史など詳細は分からないが、明治時代、住職栄信は歌人佐々木信綱と親交があり、『岩淵会』という歌の会を結成し当寺を定宿として歌会を行っていた。

明治31年、東久邇通嬉が岩淵会の発展を願って詠んだ自筆の歌碑が境内にある。
 「岩淵会の人々の歌に志熱き由を聞きて
岩淵の深き心に勤しみて 進みゆかなむ 言の葉の道」
[注:東久邇通嬉(ひがしくに みちとみ) 
江戸時代末期の公家、明治時代伯爵、政治家 貴族院・枢密院副議長歴任。号を竹亭と称し、詩文書画を能くした。佐々木信綱(ささき のぶつな)明治5年~昭和38年明治大正昭和の歌人、昭和12年文化勲章受章。]   明治25年から30年頃住職大木栄信は佐々木信綱の指導を受け、当寺で歌会を行い、自身この辺り岩淵の風景を詠んだ歌が残っている。江戸時代岩淵本宿の宿場として栄えたこの地は、明治以降も文化の香り高いところであったのであろう。
正 光 寺(しょうこうじ)
北区岩淵町32-23

大満寺の東に正光寺がある。浄土宗の寺院。山号は、天王山淵富院(てんのうさん えんぷいん)という。御本尊は阿弥陀如来、寺宝として聖観音菩薩像がある。聖観音像は、行基(ぎょうき)作と伝えられており、
頼朝(よりとも)子育て観音また世継ぎの観音などと言われている。

鎌倉時代 延慶二年(1309)入間川河畔に創建され西光寺と称した。 開基は浄土宗第三祖記主禅師 良忠、開基は石渡民部少輔保親である。境内、石渡家墓所に保親の板碑(いたび=石造りの卒塔婆)が立っている

慶長七年(1602)小田切将監重好の援助により、中興第一世真譽竜湛(しんよりゅうたん)和尚によって、現在地に再建され、重好の法名から「正光寺」と改められ、小田切家の菩提寺となっている。

山門を入った正面に高さ三丈三尺(約10m)の大観音像が立っており、圧倒されるお姿である。明治23年第二十六世転譽栄純(てんよえいじゅん)上人の発願によって完成されたものであるが、これに関わる昔ばなしがあります。

「昔、荒川はたびたび氾濫しこの辺りは洪水に悩まされ、疫病が流行した。こんなある日、近くの人々がお寺を訪れ、『疫病が流行らないようにみ仏におすがりしたいのですが、どうしたものでしょうか』とたずねました。
すると和尚さんは、『観音像を造り、み仏に安全をお祈りし、亡くなった方々の供養をしたらよかろう』と申されました。信心深い近郷近在の

人々は、多額の金品や大切にしていた銅鏡も寄進しその数はなんと百枚余にものぼり、そればかりではなく貴重な銀のかんざしや金の指輪などの装身具も惜しげもなく納められ、観音様の白毫(びゃくごう=仏の眉間にある白い毛)や宝冠などに使われ、お姿を一段と引き立てました。そして、人々の健康と安全と幸せを見守っておられます。」 当時の大観音は、年数を経て老朽化したので、平成12年原型をそのまま造り直したのが現在の大観音像である。

境内には、筆塚や庚申塔もあり、この筆塚は、亡くなった寺子屋の師匠に感謝の気持ちを表わして門弟たちが建てた碑で、建立が文政七年(1824)三月となっており、岩淵村に寺子屋があったことが分かる。
山門は、平成22年11月「北区有形建造物文化財」に指定された。 
その山門前右に「十二石橋供養塔」という石碑が建っている。これは、この辺りの根村用水の木の橋が洪水の度に流されて困っていたので、江戸富澤町の大塚善兵衛が、12ヶ所に石橋を架けたのを記念して文政十年(1827)に建てられたものである。当時、岩淵や下(志茂)村は荒川の氾濫による洪水にたびたび会い、大正時代になって荒川放水路(現在の荒川)が出来るまで悩まされ続けていたのであった。
 
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