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2014-08-20
北区探訪⑱
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
荒川岩淵水門(赤水門)と荒川知水資料館

 日光御成道の北区の北端は、新荒川大橋近くの岩淵の「川口渡船場跡」です。
荒川は、昔「荒ぶる川」と言われ、大雨・台風の時には度々氾濫し、洪水をもたらしていました。そして、この辺りには橋がありませんでした。そのため対岸に行くには「渡し船」を使い、各所に「渡し」という場所がありました。「宮堀の渡し」(北区神谷町)は昭和35年冬まで運行していました。

明治43年(1910)8月6日から降り続いた雨は、荒川上流部の埼玉県三峰で675.8mm、東京で310.5mmを記録、このため荒川の堤防も各地で決壊、越水して東京府(当時の)南足立郡の半分、北豊島郡の北半分、南葛飾郡の7割、さらに東京市(当時の)下谷・浅草・本所・深川の4区が「浅草区史」でいうように「濁浪(だくろう)の海と化し」ました。

 この洪水をきっかけにして、荒川放水路の掘削計画が動き始めました。すなわち、荒川(現隅田川)の岩淵に水門を造って仕切り、延長22㎞、幅500mの放水路を新たに掘って、そこに荒川の水を導き海へ流下させるという大事業です。
東京の下町を洪水から救うという大きな使命を持ったこの計画は、数々の困難に遭遇し、のべ約310万人もの人々が携わり、約20年にわたる大規模な治水事業として昭和5年に完成しました。それ以来、荒川放水路は、流域の街を洪水から守り続けており、荒川下流域は急速に発展しました。

 この荒川放水路工事の総責任者が青山 士(あおやま あきら)です。                         
青山士は、大学卒業後、自費でパナマ運河工事に日本人技師として唯一人参加し、世界最先端の土木技術を学び、日本に帰国しました。その後、荒川放水路と岩淵水門の工事責任者に着任しました。
 工事は試行錯誤の連続でしたが、特に岩淵水門の基礎工事にあたっては青山の力量が発揮され、通常よりも基礎を頑丈にすることで関東大震災にも耐えうることができたのです。最高責任者でありながら常に現場に出て作業員の一人として工事に加わっていた青山は、皆に親しみを持たれ尊敬されました。工事関係者とともに建てた犠牲者を弔うために建てた記念碑に下記のように記しています。
 この大事業の最高責任者であり、功労者でもある青山士の名前はどこにも記されていません。「巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものである」という青山の精神が簡潔に刻まれています。それは、荒川知水資料館の入口に設置されています。

此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル
犠牲ト労役トヲ払ヒタル
我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ』


大正13年に完成した岩淵水門も長年の使用による老朽化と地盤沈下により引退し、少し下流に昭和57年に建造された新しい岩淵水門にその役目を引き継ぎました。

そして、二つの水門はその色彩から、旧岩淵水門は赤水門、新水門は青水門と呼ばれています。
 岩淵赤水門は、貴重な歴史的産業遺産として次のような指定を受け、また桜の名所としても親しまれています。
 平成 7年 (1995)推薦産業遺産指定(産業考古学会)
 平成11年 (1999)東京都選定歴史的建造物指定(東京都)
 平成21年(2019)近代化産業遺産(経済産業省)
 平成  9年 (1997)  北区景観百選
昭和40年に荒川放水路は「荒川」と呼称を改め、荒川の本川下流に位置づけられ、元の荒川は岩淵水門から河口まで「隅田川」と呼ばれることとなりました。

荒川土手を川風に吹かれ、広々とした景色を眺めながらする散策は、都会の喧騒を忘れ、ゆったりとした気分にさせてくれます。さらに、桜の時期には、絶好のお花見名所となります。

荒川知水資料館
北区志茂5-41-1

(通称:アモア amoa ARAKAWA MUSEUM Of AQUA)
赤水門の近くに平成10年にオープンし、国土交通省荒川下流河川事務所と北区が運営している資料館です。入館料は無料です。
荒川の魚や鳥、植物などの自然や荒川放水路の歴史等を学ぶことが出来ます。二階には荒川放水路掘削工事の様子の展示や青山士のコーナーがあり、大人も子供も楽しく勉強できる資料館です。


出典:国土交通省 荒川下流河川事務所発行資料
 
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