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2015-03-13
北区探訪⑲
石躍 胤次(いしおどり たねつぐ)さん
西音寺と八雲神社(さいおんじとやぐもじんじゃ) 西 音 寺
(北区中十条3-27-10)

日光御成道に面した参道と山門
JR東十条駅北口から高台にお寺の白壁と大きな屋根が見える。
真言宗智山派、無量山 龍谷院 西音寺である。参道・山門は日光御成道沿いにある。

西音寺は、室町時代、玄仲という僧が文明二年(1470)江戸築城で知られる太田道灌の帰依を受けて創建したと伝えられている。
新編武蔵風土記稿の縁起に「新義真言宗袋村 真頂院末無量山龍谷院ト云。開山ハ玄仲ト称シ文明頃ノ僧ナリト云。不動ヲ本尊トス。本堂ノ後 小阜(ショウフ=小高いところ)ノ上ニ松ノ老樹アリ。樹下ヨリ東ノ方ヲ望メハ近郷ノ田園ヲ見ワタシ又遠クハ筑波日光ノ山々ヲ望ミテ最佳景ト云ヘシ」と記述がある。ここからの眺望が大変良かったようである。
本堂には、根来上人興教大師一刀三礼作と伝わるご本尊の不動明王を祀っている。

境内には、観音堂、鐘楼など立派な堂宇が並んでおり、墓地入口前の無縁塔には沢山のお地蔵様や仏様が集められ供養されている。

門前に宝暦二年(1752)造立の傘付き三面仏六地蔵の六面体の石塔がある。武州豊島郡十条村願主浄心の銘が彫られている。仏様・お地像様の彫が深くくっきりと浮かびあがって美しい

門前のお地蔵様と供養塔

 その隣にはお地蔵様と豊島八十八札所三十番の石碑が立っている。

金輪寺考(小野磐彦氏著)によると、王子の金綸寺の廃寺に際して、金輪寺の梵鐘は西音寺に移されたが、大戦中の供出に応召し行方不明になってしまった。また護摩堂にあった弘法大師像も西音寺に移され、これは現在も観音堂に奉安されていると記されている。

明治六年(1873)東京に小学校が7校開設された。その一つの荒川小学校はここ西音寺内に誕生した。

八 雲 神 社
(北区中十条3-33)

西音寺から日光御成道を100mほど行った環状七号線の馬坂の交差点に小さな社がある。須佐之男命(すさのおのみこと)を祀った八雲神社である。
境内の八雲神社略由緒記によると、牛頭天王(ごずてんのう)須佐之男命をご祭神とする  祇園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。
神社名は、須佐之男命が詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻篭に八重垣作るその八重垣を」による。
江戸時代編纂の新編武蔵風土記稿に「牛頭天王社 西音寺持」とある。江戸時代までは牛頭天王社と称していたが、明治初年の神仏分離令により現神社名になった。その後王子神社の末社として旧宿町(中十条2,3,4丁目辺り)の村持ちの神社となり、昭和14年以前はテンノウサマ(天王様)として庶民の崇敬を集めていた。現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。
牛頭天王は、日本の神仏習合における神様であり、元々はインドの祇園精舎の守護神であると言われている。疫病除け、病気平癒また内緒で賽銭をあげると縁が結ばれる縁結びのご利益があり、昔は諸願成就の「丑三つ参り」「丑の刻参り」が盛んに行われていた。
「王子町誌」には、寛政八年(1796)に創建され、境内に「天王の一本杉」と呼ばれた樹齢300余年の老樹があり、遠くからの目印になっていたが明治の末に枯れ死した。村人たちが切り倒そうとしたが、うつろの部分には丑の刻参りの幾つもの藁人形に五寸釘が無数に打ち付けてあって、ノコギリが使えなかったということである。丑の刻参りというのは、人を呪い殺すマジナイとされ、白衣を着て髪を乱し、頭にロウソクを灯して、カミソリをくわえ、丑三つ(午前2時から2時半〉の頃に人に見られぬように行き、対手に見立てた藁人形を5寸くぎで打ち付けるのだそうだが、それが実際に行われていたわけである。

境内に、天明四年(1784)建立の庚申塔があり、「是より左りいたばし道」の道標銘がある。神社は、太平洋戦争以前は環状7号線の真ん中あたりにあったが、昭和16・7年頃に現在の地に遷座となった。
現在(平成27年)日光御成道の道路拡幅事業が進められており、境内も削られるようである。どのような形で存続するのか気掛かりである
境内の庚申塔
馬 坂(うまさか)
東京都の説明標識   この辺りは「馬坂」と呼ばれており、平成18年まで馬坂交番があった。今もここの歩道橋には馬坂歩道橋と表示されている。馬坂は、環状七号線・平和橋が出来るまで重要な通り道であって、神谷村から板橋宿に通じる急坂な本通りで神谷村の若衆が、板橋宿の女郎屋に通う道でもあった。この旧道は馬坂や日枝神社の前を通り、富士見銀座を横切ってずっと先で環七と一緒になって、姥ケ橋を経て中山道につながっていた。
旧馬坂辺り
坂の名は、坂の地形が馬の背に似ているからとも言われている。平和橋の西のたもとに、南に向かって下る石段道があるが、その段々道の西側に沿ってくぼみになっているところが昔の坂の降り口であった。      (出典::北区新聞「北区の史跡と伝説」23)
 
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